Anthony Colin Bruce Chapman と Lotus

1928年 Anthony Colin Bruce Chapmanは、英国サリー州リッチモンドに生まれる。
父、スタンレー・フランク・ケネディ・チャップマンと母、メアリの間で一人っ子として育つ。

1945年 10月、ロンドン大学のユニバーシティ・カレッジに入学し、エンジニアリングを学ぶようになる。
この大学時代にモータースポーツに対する情熱を一気に燃え上がらせる事になった。
そして、車に掛かるお金を稼ぐ為に、大学の友人とUSED CAR売買のアルバイトを始めた。
新車の生産が始まっていなかった(戦後で)上に、ガソリン配給権を得られるUSED CARは人気が
あった。こうしてチャップマンは運転技術や商売のセンス、話術などを磨いていく。

1947年 ガソリンの統制もなくなり徐々に新車の販売も始まってきたのでUSED CARの価格が一気に下がった。
これでは商売にならないと、ストックを手放す事にしたが、
どんなに安くしても売れない車が1台だけあった。
その車はオースチン・セブン・サルーンのファブリックバージョンである。
そしてそのオースチンを改造して自分用のスペシャルを造ろうと思い、ガールフレンドであるヘイゼル
(後の妻)の裏庭(バックヤード)でスペシャルマシンの制作に取りかかった。
そして、この車をロータスと名付けた。
このオースチンスペシャルはLOTUSとして登録された最初の車になる。


1948年 このLOTUSマーク1を使い、ローカルのトライアルに参戦する事になるが、
大学の卒業試験に追われた為、3戦だけの出場となる。
それでもその速さは周囲の注目を集めたのであった。
そして、卒業試験を無事に終えたチャップマンは、早速新しい車、マーク2の制作に取りかかる。

1950年 6月にシルバーストンの8クラブ主催のイベント、5ラップのスクラッチレースで、
チャップマンが乗るマーク2で優勝をした。このレースでLOTUSの名前は一気に広まった。
その後、マーク2を譲り受けたマイク・ローソンは数多くのレースで優勝した。

1951年 新型マシンの準備に取りかかるが、その頃同じ志を持つマイケルとナイジェルという兄弟
(自宅に本格的な工場設備を持っていた)と協力してマーク3を制作する事になった。
この750フォーミュラ用のマシンとして制作されたマーク3は、スリムで軽量なマシンに仕上げられていた。
軽量、コンパクト、優れたロード・ホールディングというLOTUSに受け継がれるコンセプトは、
この時に芽生えたかもしれない。

51年後半には、チャップマンは後にロータス社初のプロダクションモデルとなるマーク6の計画に取りかかる。

1952年 マニアの為のチューニングショップ及びスポーツカー製造仕事を目指していたチャップマンは、
1月1日に友人であるマイケルとアレンとともにロータスエンジニアリング社の看板を掲げる。
ただそこは、父が所有するホテルの一角の旧い馬小屋の半分を借用したものだった。

1953年 ようやく軌道に乗ったロータス社であったが、馬小屋を改造したファクトリーでは
車2台でいっぱいになってしまう。資金も乏しく新設する事もできなかった。
そしてマイケルアレンはマーク6プロトタイプのクラッシュで財政が厳しくなり、
ロータス社を去る事になる。
そこで、2月にチャップマンの後の妻であるヘイゼルがマイケルの持ち分を引き受ける事になった。

1954年 10月にチャップマンとヘイゼルは正式に結婚した。

その後、マーク6の成功で資金を得たロータスは、次のプロダクションモデルである、エリートとセブンの
生産を立ち上げる為に新たな会社を設立する。
エリートを生産し、その後市販モデルを手がける事になるロータスカーズと、レーシングマシンとセブンを
手がけるロータスコンポーネンツ。
量産体制となったので新しく工場を設立して本拠もそこへ移された(フォードシャーのチェンスハント)

1967年 ノーウィッチにある軍用飛行場跡地に本拠を移す。

エリート後継モデルとして発表されたエランは、大ヒットとなり、これを足がかりに株式を公開。
ロータスは株式会社として大企業の仲間入りを果たすのであった。

1970年 ロータスコンポーネンツ社は、ロータスセブンの生産を止めて、ロータスレーシングと名を変える。
その後、ロータスレーシング社は閉鎖された。

1978年 ロータスカーズは、デロリアンの設計に入る事になった。
この時期から他メーカーの様々な開発プログラムを請け負っていた。
その間自社モデルの開発が全く手がつけられないでいたので、
ロータスカーズ社の販売不振に追い打ちを掛けてしまった。
エリートやエスプリで高価格路線を目指したが販売がイマイチ振るわなく経営不振に。

1981〜82年 事実上の売上台数が0になる。
トヨタとの提携が動き出された矢先の事であった。

そんな問題がある中、82年12月16日にチャップマンは急性心不全で突然逝ってしまった。
54歳の若さであった。
その後、ロータスカーズはGM傘下に入ったが、TeamLotusだけは
未亡人ヘイゼルのオーナーシップの元活動を続けた。

                        

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